がぁ〜このひとりごと

 一言居士(いちげんこじ)

性格に影響を与えた人① α+α

 

こんにちは。

一言居士(いちげんこじ)のがぁ〜こです。

 

前回、前々回、「私の性格や考え方に大きく影響を与えた人」母親🤱の話をもう少し

f:id:gaaaaako358:20240503002050j:image 母もしていたグランドゴルフ⛳️今は父と参加しています

本当にとても元気いっぱいで動き回っていた人でしたが、最後の膵臓がんには勝てず79歳で逝ってしまいました。

実際、50代から、乳がん、大腸がんと初期のがんが忘れた頃にまたでてきて、手術して克服していました。途中、血液関係のがんもわかっていましたが症状がでずそのままにしていたことも後から知りました。

膵臓がんは、手術できず、そのままにしておけば平均半年、抗がん剤をして1年くらいと、ドクターに言われました。

家族は、母の年齢のこともあるし、抗がん剤はすべきなのかと思っていましたが、母は「まだ生きたいし、お父さんもいるから」と覚悟を決めて初めての点滴の抗がん剤治療を始めました。

 髪が抜けカツラにしても、吐いたり寝込むことなく、午前中点滴、終わるとお友達が迎えにきて、老人ホームにボランティアに行くことも。

私は、77歳のおばあちゃんが、老人ホームでボラ?と思っていましたが、フラダンス踊ったり、民謡歌ったり喜んでもらえて好評なのよ、と本人はうれしそうに言っていました。

2020年の母の最後の半年は、丁度コロナが流行して、ボランティアやカラオケ🎤も行けずにいました。また子どもや孫たちとも会うことができず、母の病状が酷くなっていくところは見ていません。コロナ前は2ヶ月に一度は帰っていたのに。あの頃のコロナ厳戒態勢は…しょうがないことですが、今思えば異常なほどのピリピリ感でした。仕事を持っている私が遠距離の移動で実家に持ち込んでも、また仕事場に持ち込んでも大問題な状況でした🥹

なるべく家にいたいということで、病院にも2回2週間弱、高熱と腹水を抜くのに入っただけ。家の介護ベッドも半月も使わず、介護パンツも1日しか使わず。

最期の日は、急激に血圧が下がって、遠地の私は間に合わず、自宅でたくさんのお友達と父や弟夫婦に見守られながら逝ってしまいました。平均の3倍近く、膵臓がんとわかってから3年弱生き抜いて、80歳を迎える少し前に。

前の日に作った鶏肉の煮物が残っていました。それくらい最期のさいごまで、しっかり立派に生きていた母を尊敬しています。生きている時にそれを伝えられなかったことに後悔が残ります。

そして今日も母の知り合いの方に、「あなたのお母さんのことを思い出すと今でも涙が出るわ」と道端で声をかけられました。

 

それでは、続きは次回に…